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学徒動員・日本無線

戦争末期、時々書いていた日記を要約する。
私は専門学校(今の女子大) 4 年生の頃である。

昭和19年5月からの学徒動員で三鷹の日本無線に行く。
同級生は他の通信関係の会社等3,4ヵ所に分かれた。


私は日本無線の研究所の第3研究室に5人一緒に配属された。
この研究室は、藤井さん (先生と呼ぶ)を中心に中年の技術者数名、それに20歳前の男子研修生7,8人が実験や製図をしていた。

その頃、男女の共学は無く、男性の行く大学は女性には閉ざされていた。私達は家政科の中では理系なのだが、電気関係は殆ど知識が無い。始めの一週間は電波や真空管等の講習を受けて過ごした。指導をうけながら、皆で配線図を見てラジオを作った。

此処での仕事は、若い男子とペアーになって、新しく出来た真空管の性能検査をしたり、データー、グラフの整理である。

7月30日・・・今、一緒に仕事をしている倉石さんが、技研や電試の方と共に新しい「電界強度測定器」作っている。7月20日のサイパン玉砕の日から皆、徹夜をしているで、その補佐役の私も7時まで残業をしている。今日、体重を量ったら、先月より3キロ減っていた。      
8月10日・・・3階の窓から外を眺めていると、まだ子供の様な女の子の一団が工場の中を歩いているのに驚いた。勤労部の友人に聞くと、小学校を出て尋常高等小学校に入ったばかりの鹿児島から来た報国隊だった。工場ではちいさな部品を作る仕事をしているが、友人は紙芝居を見せたり、家が恋しくて、しくしく泣くのを慰めるのが自分の仕事だという。
 
8月30日・・・壮丁の人達は今、本社の横の原っぱ(運動場)で一日中オー、ヤー、のかけ声もの凄く、軍事教練をしている。
若い人は入隊の日が決まるのを待っている。年頃の人が4,5人寄れば、「あいつは満19歳の癖に入隊だってさ。俺の処にも今日辺り電報が来ないかなこんな所でモサモサしているのが嫌だよ」と話している。普段は馬鹿を言ったり、さぼったりしているのに若いひとは偉い。召集を歓迎しない人も多いのに。
 
朝は井の頭公園を通り抜けて会社に着き、朝礼は、軍人勅諭を誦し、研究所独特の体操をする。昼食は大豆かすや高粱の入ったご飯にお菜が付いている。美味しいとは言えないが、軍需工場なのでお腹に入る食事が毎日確保されているのは有難かった。

学徒動員の間、月に1、2度登校日があった。学校で何をしたのか覚えていないが、学校の門をくぐると、「未完成交響楽」の音楽が大きく流されていて、別世界に来たような気がした。

前年18年10月、神宮外苑で学徒出陣の式があり、私達女子学生は見送りに行った。戦局のとても厳しいのは判っていたが、学徒動員のあったこの19年は、まだ内地の空襲は殆ど無かった。昼休みは屋上に集まって合唱をしたり、研究室の皆でバレーなどして日々を過している。ほかの友人達は総務で工場に流す連絡文を書いたり、工場で真空管の品質の管理に携わっていたりしていた。

9月7日・・・遂に動員は1ヵ月延期され、10月まで現状のまま働く事になった。9月に卒業して皆、動員先から出てしまうと、日本が負ける、とまで言う軍の強い要望に、3時間もめた末、とうとう校長先生が受諾なさったとか。

動員されて5ヶ月経った9月末、半年短縮の卒業式があったが、10月末まで会社に勤めた。この研究室に配属された5人の私たちは、地方の親に呼び戻されたり、卒業と同時に船で大連に帰ったりで、10月まで残っていたのは2人になっていた。

10月、私とペアーを組んでいた研修生の倉石さんは20歳となり、軍隊に入る為に長野県に帰って行った。仕事の出来る若い男は次々といなくなっていく。

私は、部屋の部品整理をしてから、最後の仕事として波長計を造った。友人と2人でウサギの母子のぬいぐるみを作って部屋においてくる。後は下級生が継いだ。

11月からの就職先は、気の合った同級生4人一緒に、今までと仕事の近いらしい目黒の海軍技術研究所に行くことに決めた。

H16/10

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