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今夜の番組チェック

海軍技術研究所(下)

     この時代、写真機があってもフイルムが手に入らなかった。
     この頃の写真は、山内少尉が撮ってくれたこの一枚だけである。
     ズボンを作る木綿の布が無く、蒲団皮をはいで、黒や紺の色を
     かけて作った。私の21歳の頃である。


昭和20年6月頃になると私達も、実験室の人々から、米国の電波探知機はとても優秀で日本の探知機とは比べ物にならない位性能が良く、そのため日本の船が次々と沈められていると教えられた。

しかし、いよいよ敵の本土上陸が現実となりそうなその時でも「日本は神国だから昔のように最後に神風が吹いて勝つかもしれない」心の隅では少し期待している。

女子の仕事は殆ど公用使、食事つくり、後片付け、部屋や建物全体の掃除が仕事になってきた。「こんな仕事でなく、若さを生かした仕事がしたい。外から雑用をする人達を雇って欲しい」と申しいれたが聞き入れられなかった。

又、炊事の時の野菜や鰊が沢山あまり、そのまま腐らせるよりはと、女子達が分けて家に持って帰ったのが分かり、係りの部員に始末書を取られた。これがそんな悪い事なら、反対にあの事はどうだと納得できず、女子は働く意欲がなくなってきた。疎開する者もあり、1人、2人と辞めていった。

今思うと、その頃戦争は最後の様相を示していた。電波探知機の研究は捗らず、主要な軍需工場は次々と空襲で破壊され、物資や設備、予算も無く、世の中が動けない中、女子まで張り切るような仕事は与えられ無かったのではないか。それぞれが、焦っていたのだと思う。

私も父が長野県に転勤の予定が入ったので、一緒に行って、長野でやりがいのある仕事を見つけようと思い、上司にその旨を伝えた。それから、2日後。

昭和20年8月15日の日記

朝、仙川実験所に行くと、M嘱託が、昨夜、短波で聞いたら、日本の海軍が白旗を揚げた。「日本は降伏したのだ」と面持ちを変えて言われている。私はそんな話は信じられない気がしたが,M嘱託やT部員の顔をみていたら、本当かもしれないと思いだした。当直の旅順工大の学生も、「我々の実験も永久に終わりか」と言っている。

12時から天皇陛下の重大放送がある、と聞いて誰も仕事が手につかない。私は天皇陛下の玉音を拝するのだと思うので、張合いをもって二階の広い部員室を掃除する。15分前集合のベルと共に全員服装を正して集まる。その間にも警戒警報の情報が入る。

時間になって、天皇陛下の玉音がラジオから流れた。お声は崇高であったが、高低のついたお言葉は異常なものを感じた。「4ヵ国条約を受諾するのやむなきに至れり」そのお言葉。本当だろうか。その後に続く内容で完全に負けたのが解った。

私達は天皇に戦争の敗北について恨もうとは思わない。悲痛である。我々の幾多の努力も水泡に帰した。日本は米英に和を乞うたのだ。じっと熱い涙があふれてきて、体が硬直してゆく。だがあまりの重大さにそれ以上涙も出ない。続いて政府の経過発表。12時45分終了。すすり泣きが聞える。

一同すごすごと力無く2階の部屋を出た。階段で誰かが激しく声を出して男泣きに泣いている。自分の所の机に座ったまま誰1人食事に行こうとするものがいない。夕方になって極秘書類の控えを取る様にといわれ、最後のご奉公とばかりに一生懸命にやった。


翌日から書類の整理をして重要書類を皆焼いた。16日、一番上位のH部員(技術将校)の最後の訓示があった。「大石蔵之介の気持ちをもって、これからの日本を創れ」という内容である。続いてその部員の面接があり、それぞれ此処を去ってからの身の振り方を聞かれた。

進駐軍が来ると女の子は危険だから、田舎に暫く行っていた方が良いと、部員や外地経験者は言い、いや、平和進駐だから大丈夫、と言う者とで意見は2つに分かれた。いざという時の為に、それなりの薬が欲しいと、青酸カリを使っていた一高生に相談すると、散々考えた末、青い石のようなものをくれたので皆で分けた。
(後日、化学に詳しい主人に見せると硫酸銅だった。)

女子は19日最後の荷物を持って、仙川実験所を出る。
 

別れに際して、小さな手帳に、此処で出会った人達に一言ずつ、書いて頂いた。その中に珍しい名前の一高生がいたが、何年か経って、その名前が新聞に載り、東大教授と書いてあった。昔の弟のような明るい人達を思い出した。

今、海軍技術研究所をインターネットで見ると、「エレクトロニクス王国の先駆者たち」と書かれ、戦後、日本の技術王国の立役者として花開いた、とある。何となく誇らしい。
しかし、その陰に、名も無き幾多の人達の命が失われた日々のあった事を私は忘れない。

H16/12

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