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  私の小学校

もう70年以上も前の事で現代には通じないが、この頃時々小学校の頃を思い出している。

私の小学校は専門学校「今の女子大」の附属校で女だけの、50人1クラスである。今考えると、相当なお嬢様の部類だと思うが、其の頃の本人は近く の学校に行かないのだな、と思っただけで、余計な事は何も考えていない。女学校、専門学校が付いており、親はすっかり安心したのか、私の3姉妹は誰も、勉強のことを言われた記憶がない。

私達姉妹が共通に苦労したのは習字である。母は字が上手だったので、習字の授業の前日は、必ずお手本の練習をさせられた。それをサボってゆくとその日の評価は低く、どうして先生が判るのか不思議だった。

正月の書初めは、講堂「兼体育館」で1年生生から6年生まで全員のが紹介される。言葉や文字の適切なのが表紙になるので、書初めの、母の教え方は 特別厳しかった。私が六年生の時は、今の天皇が暮れにお生まれになったので、新聞に載ったそのお祝いの短歌を書いたら表紙に選ばれた。暮れから正月のかけての泣くような日々を今も姉妹で話し合う。



低学年のとき、3、4分の短いお話を覚えてきて、何人か順番に教壇に上がって、お話を皆に聞かせる授業があった。その中から2、3人が月曜日の全校集会時に講堂の壇に上がり、そのお話をする。親の選んだお話の内容と長さが丁度良かったのかいつも選ばれた。私はこれが苦手で、どうやって逃れよう かと苦心した。黒板に名前が書かれているのに出てゆかなかったら、翌週出された。

これ以外は、何でも親に相談する事なくやっていた。夏休みの宿題の工作が、飾り棚に展示されても、習字が何処かの展覧会に出されても大げさな話題になるのが嫌で黙っていた。結局、母が面接の日に行って知るのだが。

この学校で良かったとと思うことは、級長がなかったことである。

何でも自分との戦いですと教えられ、算数が得意、絵が上手、踊りが上手、親切である等、私達はそれぞれの特徴を伸ばせばよかった。周りから大事にされても、貴女達自身は偉くないのですよと念を押された。ずっと後でドルトン教育というのを受けたのだと聞く。

家の近い徒歩通学の四、五人は、時々連れ立って遠回りをして帰った。通り道にあるどこかの運動場に寄ってそこの鉄棒をちょっと使ってみたり、高い石柵から勇気を出して順に飛び降りた。神社のお祭りの時は出店で、これだけは買ってもらえる鼈甲飴「だるまや羽子板、飛行機の形」の下見をした。

家では買ってくれない籤付きの御菓子にあこがれ、横目で見ていたが、学校帰りにたまたまお金を持っていた子があったので、皆で思い切って裏通りの駄菓子屋に入り、思いを果たした。しかし、これが先生に知れ、教室で散々叱られ、いつもの操行甲が乙になった。

女学校では3クラスに増えたが矢張り級長は無い。研究、趣味、整理、体育、図書の5つの係りに分かれ責任者はジャンケンで決めた。

面接で、自分のライフワークの計画を聞かれた。それぞれ音楽とか歴史とか言う。私は手芸と答えた。

専門学校に上がった。その頃は男子の大学は女性に閉ざされていたので、大陸をはじめ、全国から女学校を代表するような人達と一緒になった。

母校に帰って教壇に立つのが楽しみとか、教育を受けたのだから地域で社会の役に立つ人になりたい、と言う初めて聞く考えに刺激を受けた。立身出世という言葉には無縁で、苦労もせずここまで来たのを自覚した。

振り返ってみると、小学校の同級生が皆、平穏無事の仕合わせな人生を送ったわけではないが、音楽、日本舞踊、、出版、織物等、子供の頃培ったものを基において、生活の柱として、又趣味として生かしてきた人が多い。

環境に恵まれ、この学校に入って、考え方を楽にして世の中を渡って来られたのでは、と思っている。


H18/04